KY力

スルー力以上にいまの自分に求められているもの。それは KY力だと思う。もっともっと、空気を読めないやつになることが、いまの自分には必要です。

そもそも KY という言葉で空気を読めない人を問題視することに、僕は疑問を感じています。空気を読めない、読まないのは、すばらしいことだと信じているからです。

日本社会全体、あるいは 2ch やはてなを代表とする日本のインターネットコミュニティーにおいて、良い意味でも悪い意味でも存在するこの空気というものは、新たなイノベーションを生み出す糧にはならないと、僕は思います。

中には空気を読めずに周りに迷惑をかける人がいて、そんな人に対する戒めの言葉として KY という言葉が登場したのだとは思いますが、いまはその言葉の広がりと共に、KY であることが問題であるという認識が広がり、いかに空気を読み、KY と呼ばれないかを意識する風潮があるように、僕自身は感じています。

空気を読んでいる状態からは、何も生まれません。みんなが空気を読んで、異端児がいない状態なんて、閉鎖された窮屈な空間です。みんなが流行をおかけ、人と同じ格好をし、同じ物を好み、同じものを目指す。そこから外れた者は KY と呼ばれ、認められない。中学生時代、高校生時代に僕が感じていた違和感は、KY になるまいとする個人の意識とその結果全体として造り出されるあたりさわりのない平和さにあったのかもしれません。KY では無い大多数は、個性的でも何でもなく、魅力のないただ大きいだけの塊でしか無いと思います。

高校時代、個性的なファッションをする英語の先生がいました。女性です。年齢の割に若い格好、というか、コスプレに近いような格好をする先生でした。日頃から学校内でも英語をしゃべり、他の先生からも笑われているような状態でした。そんな先生を見ていてあるとき気づいたのです。日頃あれだけ自分たちの個性を認めて欲しいと、校則や暗黙のルールに対して攻撃をしている生徒達も、結局は人の個性を認めず、笑いものにしているのではないかと。

あの先生は確かに KY でした。ただ、すばらしい KY でした。そこまでして自分の生きたいように生きる。その姿勢は、何も恥ずべき事ではありません。むしろ僕は、その姿勢から学んだと思っています。

僕自身はどうかというと、自分で言うのもおかしな話ですが、どうやらものすごく空気が読めているらしいです。仲間で集まっているときや、社内において。その能力は時にバランサーとして全体の人間関係をよくするために役立ったり、みんなに好かれたりして僕自身の日々の生活にも潤いを与えてくれました。みんな仲良く、楽しい世界です。

でも、それは僕が真に求めているものなんだろうか。

空気を読んでいたのは、誰にも嫌われないため。みんなから好かれるため。自分のプライドを守るため。空気を読まない人になるのが、怖かっただけではないだろうか。

結局の所、僕がやろうとしている事はベンチャー企業としての無謀な挑戦であり、想像を絶するスピード感の中でただ目的達成のために勢いよく前進していくという、わがままなで欲望に満ちた傲慢すぎる生き方です。ただただ平和な日常をエンジョイしたいのではありません。そんな人が、空気なんか読んでいては何も生み出せない。

空気を読んでいる僕は、逆の見方をすれば、何も尖ったところのない、平凡な人物です。客観的に見て、自分はそんな人に魅力を感じるだろうか。否、断じて否。チームの構成員として、友達の1人として、全体に有益なメリットをもたらす人ではあるけれども、傲慢な欲望をかなえるためのチームのリーダーとしては、全くもって魅力に欠けます。

よく考えてみたら、自分が尊敬している人は、空気なんか読んでいない人が多い。読めない人もいれば、読んでない人もいる。どちらにせよ、KY です。Steve Jobs やラオウは、空気なんか読んでいません。

自分はとことん KY力を鍛え、尖っていくことにします。本当は何も考えなければ、自分はそういう人だと思う。何も遠慮はいらない。自分の KY っぷりを最大限に発揮して、傲慢に生きていこうと思います。

幸いにも、チーム全体として見た場合、自分が KY の極みになったとしても、その状態をサポートしてくれるバランサーが存在します。それぞれに得意な能力や最適なキャラクターが存在することを認め、いま自分がすべきことをやっていこうと思います。

空気読んでいる暇があれば、自分の空気を創る。それが創業者としての、リーダーとしての役目だと思う。

ポラロイド写真の男

忙しい。全然更新できなくてもどかしい毎日です。

そんな風に働くことは僕にとって楽しみ以外の何者でもないのですが、あるエントリーがなんだか大切なことを教えてくれた気がします。いま読んだばかりで、とても心が動かされる思いです。気づけば、久しぶりに Blog を更新していました。

mental_floss Blog » He Took a Polaroid Every Day, Until the Day He Died

Digg で知ったエントリー。特に、最後の日々にいろいろと感じる物があります。

人生は短い。それも、1度だけ。本当にやりたいことをやって、毎日を生きよう。

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ぬるま湯

ぬるま湯につかってその事実にも気づいていなかったときは、ぬるいとも思いませんでした。でも、自分がぬるま湯につかっていると分かったいま、全身が震えるほど寒さを感じるのです。

先週のレビューはお休みです。プライベートが忙しくて、あまり仕事時間が取れませんでした。変わりというわけではありませんが、最近考えていることを書いておこうと思います。

Blog に書いておこうと思ったきっかけは、今週の出会い。今週はとても刺激的な出会いをしました。自分がいま進んでいる道の、そのずっと先の方を知っておられる方との出会いでした。

その時の会話、雰囲気、質問内容。短い時間の中でも、すべてが刺激的でいた。

帰り道、2008年に入ってから意識し始めていた事が、より一層大きな思いとなって自分の中に広がりました。

それは、いまの自分はぬるま湯につかっているということ。

もっとたくさんの可能性に挑戦できたはずだ。自分は失敗を心から恐れている。そして失敗から逃げるために、安全な道を進んでいる。さらには失敗の現実からは逃れ、そこから本当の意味で学ぶことを避けている。

恐怖を感じていた事にすら、気づかないふりをしていました。

これから先、自分の前にはこれまで以上に大きな壁が立ちはだかるでしょう。これまでには見えていなかった壁、見ていなかった壁が、次々と視野に入り、そこへ向かって突き進んでいく道が待っています。

ずっと求め続けていたはずの道なのに、その先が見たいと進み始めたのは自分なのに、これまでは恐怖心から目を閉じていたのです。

自分は壁を打ち破ることが出来るだろうか。そこから学び、次へとつなげることが出来るだろうか。いつまでも、進み続けることが出来るだろうか。

目を閉じていたことに気づいたいまも、正直、不安がいっぱいです。

でも、ここで立ち止まるわけにはいきません。ようやく現実に向き合えそうないま、何をすべきか。それが問題です。

自分でも答えはもうわかっているはず。ただただ、やるしか無いと。

子供の頃の出来事を思い出します。小学校低学年のころ、いつも一緒に遊んでいたいとこの兄ちゃんとの会話。

自分「もっと早く、本気で走りたいんやけど、本気が出えへんねん。」
いとこ「それ、走るのが遅いんじゃないの?」

あの時、衝撃を受けたのを覚えています。自分は走るのが遅いということをようやく受け止めることが出来た瞬間でした。それまでは、本気を出せば早く走れるもんだと思い込んでいたのです。

本気が出るのを待っていても何も変わりません。ただただ、全力で挑戦すること。全力で失敗すること。そして、そこから痛いほど学ぶこと。

そのためにいまこのぬるま湯から出て、一番近くにある壁にぶつかっていこうと思います。

失敗は成功の母、とか、失敗から学ぶ、とは言葉では知っていました。でも、自分は全く理解していませんでした。

僕はこれから、失敗をします。

多くの人に支えられている事実が、十分すぎるぐらい僕に勇気を与えてくれます。これまでその勇気をうまく使えずにごめんなさい。これからも、応援よろしくお願いします。